俺がまだ僕だった頃。
 毎日僕の横には泣きそうながいた。




 はあの頃、泣き虫じゃないかった。すぐ泣きそうになるだけで、決定的な涙は絶対に流さなかった。潤眼にはなっていた。横にいる僕だけがわかっていた。逆に言えば、僕しかわかっていなかった。だって、の隣には僕しかいなかったから。当時から、僕はに対するシンパシー的なものを感じていた。
 が泣くと、僕も悲しい。
 それが自分の中での優先順位ナンバーワンだった。


 の家は、いわゆる「普通の」家庭だ。お父さんがいて、お母さんがいて、がいる。兄弟姉妹はいない。そして両親は共働きで、はいつもひとりだった。「普通に」考えてまだひとりにすべき年齢じゃない時からひとりだった。ああ見えては、家事全般はほとんどできる。家の献立はすべてが考えて作っている。そして、はいつもひとりで食べている。

 昔は、なんていうとは怒るだろうけど、はすごく几帳面だった。
 なにごとにも丁寧で、ひとつひとつのことをじっくりやる。確実に物事を解決していくタイプ。
 だけど、そのペースがゆっくりだったから、みんなに遅れることが多かった。負けず嫌いというよりも、みんなに置いて行かれることが嫌だったんだと思う。いつも泣きそうだった。泣きそうになりながらお弁当を食べたり、積み木を組み立てたり、砂遊びをしていた。

 でも、僕が隣にいたから、は泣かなかった。
 別に、僕だけの力がすべてだなんて言わない。だけど、僕の力もあったはずだ。
 僕だけが、をおいてけぼりにしなかったのだ。




 そして、僕が俺に代わる頃から、はだんだんと変わっていった。
 よく不良になる人は急激に変わるっていうけれど、そういうことじゃないんだと思う。心に積もったフラストレーションは他人には見えない。それがどんどん溜まると、見た目にも現れる。見た目だけで「突然」なんていうのは少し違う。


 なんか、どんどんと溜まっていく様子が、外見にも現れてた。
 簡単にいえば、だんだんと笑わなくなっていった。そして、泣きそうにもならなくなった。
 何事に対しても「どうでもいい」というスタンスで対処するようになった。変に器用になって、それでだいたいのことは解決できるようになったのだ。それでも俺はずっと傍にいた。が無理をしていることはわかっていたから。のことなら全部わかるなんていうほど驕るつもりはないけれど、なんとなくわかってしまう。

 そして、俺は、が俺から離れたがっていることにも、なんとなくわかってしまった。
 それが、中2の頃の話。












さん、元気?」


 部活が終わって着替えているとき、思い出したように水谷がしゃべりだした。ああ、この前水谷と会ったんだっけ、と思って「元気だよ」と答えた。本当ははずっと元気がない状態なんだけど、それを言うとまた話がややこしくなる気がして、俺はとりあえず答えた。あ、これって嘘になるのかな。そう思うと少し罪悪感。水谷に嘘つくのって、なんか嫌だな。誰が相手でも嫌だけどね、嘘は。



「あのさあ……あの子って、元気だとどんな感じになるの?」
「え? どんな感じって?」
「えーっと、あ、例えば、この前俺と会ったとき、あれは元気なの? 普通?」


 なかなか鋭い質問で、びっくりした。なによりもちゃんとわかっているというか、なんというか。
 確かに、は概ねあんな感じだ。元気というか、掴み所がないというか。難しいな、説明するの。あれが通常の「の元気」なのだろうか、俺の中ではそうじゃないんだけど。

 は、ずっとずっと元気がない。俺から言わしてみれば。


「うん、まあ、いつもあんな感じ」
「…あのさ、栄口」
「ん?」
「俺さ、最初、栄口とさんが幼馴染って聞いて、めちゃくちゃ意外だと思った」
「うん」


 まあ、そうかもしれないな。特に水谷とは中学違ったからなあ。小学校中学校が同じやつは、全然気にしないけど、どうにも俺とって対極に見えるみたいだし。


「でも、あの子って優しいよね」
「え?」
「なんていうか、…うん、いい子だよね。よく考えると、栄口の幼馴染だから、当たり前っちゃ当たり前だけどー。そういえば阿部は知ってんの? さんのこと」


 急に話を振られた阿部は、「ハア?」と言った。ていうか、阿部、のこと覚えてるのかなあ、確か同じクラスになったこともあるはずなんだけどなあ。



って子。栄口の幼馴染の子なんだってー」
「……ああ、あいつ」
「え?! 阿部が覚えてるってすごくね?!」
「俺を馬鹿にしてんのか……つか、あいつはなんか、特別だったから」
「え?」


 え? と言ったのは水谷じゃなくて、俺だ。



「確か中学でずっと同じクラスだったんだけど、他の女子と違うんだよな、あいつ」
「え? どこが?」
「なんていうか、俺と似てんだよ。人の名前覚えねえし。俺より酷いね」
「えー、阿部よりひどいとかないって。俺の名前、褒めてくれたし!」
「は? お前の名前のどこに褒める要素があるんだよ」



 そこからは阿部と水谷のじゃれあいになって、の話からはずれてしまった。
 人の名前を覚えないことで、人の名前を同じく覚えない阿部に覚えられるとか、ちょっとおもしろいな。さすがって感じだけど、は阿部のこと覚えてるのかな? 今度会ったら聞いてみよう。







 水谷に、と付き合ってるの、と聞かれたとき、微妙な気持ちになった。
 俺がを思う気持ちは、恋愛と言ってしまうにはすこし違う気がする。恋愛って、もう少し違うものっていうか、なんていうか。そういうものにしてしまう気は、少しもったいない気がする。

 だって、を今さら恋愛対象に見てどうする?

 がどこに誰と行ったかを逐一心配して嫉妬して、ましてや彼氏ができたとか別れたとかにやきもきするのは、とってもエネルギーのいることだと思う。たとえば、あの日。ビデオ屋で会ったとき、誰の家に行ってたんだ? とか。気にしてたら、もうなにもできない。



 きっと、を束縛する気持ちが強くなる。
 そんなの、体も心ももたない。


 だから、僕は、俺は。