風邪だって聞いたから、と言って、自販機で買ってきた(であろう)ペットボトルのアクエリアスをベッドの横の机に置いた。うん、とよくわからない相槌を打って、わたしは乱れた髪の毛を手ぐしで直した。保健室のベッドは休めるしそれなりに寝れるけど、硬いから節々が痛くなるな。



「今更、直したって変わんねーよ」
「笑うな、乙女の恥じらいを」
「そんな冗談言う元気があるなら、心配することはねえな」



 冗談ね、とわたしが呟くと、案の定この男は聞き返してきた。いちいち答えるのも面倒なので、だるい、と答えた。だるいのは事実だし、しかも目の前の男は風邪という意味で解釈したらしく、「やっぱ大丈夫じゃないんだろ」と言った。目が潤んでいるのも、この男は風邪のせいだと汲み取っているのかもしれない。こっちがこんなにもぐだぐだになっているのは、どいつのせいだと思ってるんだ全く。



「なんで来たんだよ」
「さあ」
「無理するくらいなら、今日は休んどけよ」
「休めるわけないじゃん」
「は?」
「……レギュラー、復帰、おめでと」



 わたしがそう言うと、まさかそれだけのために来たのか? と宍戸は呆れた顔をした。それだけ、じゃあないだろう。だってわたしは知っている。宍戸がどれだけ努力をしたのか。放課後残って鳳くんっていう後輩と練習を積み重ねたのか。宍戸は馬鹿だから、テニスをすることしか知らない。宍戸は馬鹿みたいにテニスが好きだから、テニスを諦めるとか、そういう選択肢がなかった。



「宍戸のお祝い事だからね。こっちが見舞われることになるとは思ってもなかったけど」
「俺の祝い事よりも、お前の健康のが大事だろ」
「……宍戸には、ちゃんと祝ってくれる女の子もいるしね」



 呟くと、宍戸は信じられないような目でわたしを凝視した。おいおい、失礼だろ、と思ったけど、突っ込む元気もあまり残っていない。昨日、一緒に帰ってたじゃん、とわたしが言うと、宍戸は、見てたのか、と言った。
 (ほおら、やっぱり見間違いなんかじゃなかったよ)



「可愛い子だったね」
「…言っとくけど、あれは付き合ってるとかじゃねえぞ」
「嘘付け、宍戸が好きそうなタイプだったじゃん。こう、守ってあげたくなるようなさ」
「俺は別にそういうタイプが好きだって言った覚えはねえ」
「前の好きな人見てりゃ、大概分かるよ……」


 この男は、どこか危ういような女の子が好きだ。女の子らしい子に弱い。そういう女の子に密かに恋をしていることも、密かに恋をしていたことも、わたしは知っていた。わたしだけの思い込みではないはずだ。だって、忍足と「あいつはわかりやすいなあ」なんて会話を繰り広げた事だって、ある。わかりやすいのだ、意思と行動がちゃんとイコールで結ばれているから。だから、男の子は女の子らいい子が好き、なんていうセオリー通りの好みであっても、納得できてしまうのだ。



 昨日、宍戸がレギュラーに戻ったよ、というジローくんからのメールを見て、わたしは慌てて宍戸を探した。見つけたのは、女の子と仲睦まじそうに歩く宍戸。わたしはなにか目に見えないものに敗北を感じた。なにがわたしには足りていなかったのか。なにがわたしには多過ぎたのか。ぐるぐると頭の中を巡り、そればかりを考えて家に帰りもせずに歩き続けていたら、いつの間にか夜になり、雨が降ってきた。そして、わたしはなにをやってい るのだろう、と全てが馬鹿らしくなった。果たして、頬を伝う液体は、雨なのか汗なのか涙なのか。いずれにしても、理由は宍戸だ。結果、風邪を引いた。だから、至極当たり前なのだ。病は気から、というけれど、ここでいう気のように、わたしの心をぐちゃぐちゃにする作用が、この人には、あるのだ。



「俺がいつ、誰を好きだってお前に言ったんだ」
「言わなくても、わかるってば」
「……だから、はわかってねえんだよ」
「わかってなくても、わかるよ」




 この手から滑り落ちない、わたしにとって大切なものは、わかっているよ。わかってしまうから、辛いんだよ。

 風邪で熱っぽいだるい体にアクエリアスが溶ける。細胞にまで冷たさが届いてることが分かった。ここに染み込む感覚が、リアルに脳まで届くのだ。不思議なもので、悲しいもので、わかってしまうので。


 世界は狭いとは、誰が言ったことでしょう。わたしの知らないことばかりじゃないか。まだまだ、知らないことばかりで、生きていくのがひどく億劫になるじゃないか。これから知らなければならないことが多くあり、けれど忘れていくことも多くあり、その挟間でわたしは覚える自分と忘れる自分に嫌気がさすのだ。


 わたしは宍戸の努力を知っているつもりでいた。しかし、こんなにも傷だらけになって、髪の毛を切った宍戸を知らない。本当の意味で、宍戸の努力をわたしはなんにもわかっちゃいない。ただ、傍観者なだけだ。これじゃ跡部ファンと同じじゃないか。キャーキャー騒いではやし立てて、わかった振りをしているだけじゃないか。
 宍戸に連れ添って歩く女の子は、宍戸と同じ方向を向いているのかな。わたしは、何も知らない。


 わたしは世界のスケールからしてみればとてもちっぽけな恋によって、酸素を吸い、二酸化炭素を吐き出し、憂鬱な月曜日にローファーを履き、満員電車に揺られ、大嫌いな数学の授業を受け、家に帰り、眠る瞬間のささやかな至福を感じ、そうやって生きていくという意味を知る。すべての行為に意味が付けられる。すべての感情に色が付く。そういうことを、恋によって知る。つまり、わたしにとって、生と恋は同義なのだ。


 悔しくて辛くてどうしようもできなくて、とりあえず、涙が出ることもすべて風邪のせいにして、今はただただ枕を濡らし、贅沢に彼との時間を使いましょうか。



 生きる、とはそういうことなのです。
 呼吸をするのも、すべては。



/これは悲恋なのかどうなのか。/26「雨か涙か」